山は誰のものか? vol.1「マナスルは山小屋か?」

入笠山の山小屋、マナスル山荘本館の山口です(マナスル山荘本館は、2023年4月よりヒュッテ入笠と名称を変更します)。

冬のシーズン営業について

冬のシーズンの営業は宿泊12月10日(土)から、日帰りランチ営業は12月16日(金)からの営業スタートです。

11月14日からしばらく休館になりますのでご了承ください。準備や作業のため、関係者以外の敷地内への立ち入りもご遠慮ください。

タイトルは『山は誰のものか?』。これは山の所有者や利権者を明確にするということではなく、さらに卵が先か?鶏が先か?的な議論を交わすことではなく、私のこれまでに関わった山についての想いや考えを不定期に何回かに分けて綴っていこうと名付けたタイトルです。

さて、『山は誰のものか? vol.1』は「マナスル山荘本館は山小屋なのか?」についてです。

山荘でご宿泊の方、特に山小屋宿泊初体験の方を連れてきたベテランの方の言葉で接客中によく耳にするのが、

「ここを山小屋のスタンダードと思うと後が大変だよ」

のようなセリフ。これはとてもうれしいお褒めの言葉で、このようなセリフを聞くと「よし!」とガッツポーズをその場でしたくなるような歓喜の感情が沸き起こるのですが・・・私の頭の隅では「本当はこれが山小屋のスタンダードだから」という想いも浮かぶのです。

なぜなら日本の近代登山黎明期、明治末〜大正時代に建て始められた登山のための山小屋は(宗教的な山の施設や狩猟や測量などの山の施設を除く)、登山者が山での滞在を楽しむための施設でした。それを建てようとした当時の経営者もその山を気に入り、「この景色を登山者に見せたい」「ここで登山者をもてなしたい」という強い想いで、建設や営業な困難な山の上に山小屋を建てたのでしょう。白馬山荘では創業当時に貸し切り自動車で登山者を送迎したり、燕山荘は帝国ホテルが経営に関わったり、槍沢ロッジは開設時の名称が「アルプス旅館」でした。私が長く務めた針ノ木小屋を創業した百瀬慎太郎は登山案内人組合を作りました。どれも登山者を山でもてなすための想いの詰まったエピソードです。

彼らが「山小屋をこの場所に建てよう」と最初に決断した時は、その場所からの壮大な景色を眺め山で過ごす時間を楽しんでいる登山者の喜ぶ顔を思い浮かべたはずなんです。こんな不便で厳しい環境で山小屋を建てようと思うのですからなおさらです。

入笠山も戦前戦後の時期に都会の文化人たちが山登りを楽しみ、山での滞在を楽しむ場所でした。当時は富士見高原と呼ばれていたようです。ここでの滞在を楽しむための山小屋もありました。当時の文壇の方々の残した書籍からも当時の山の楽しみや山小屋での生活を伺い知ることができます。山での生活を余すことなく楽しんだ姿を目に浮かべることができます。

その当時の想いを受け継ぎ、私は山での滞在を心から楽しむための山小屋として「マナスル山荘本館」を経営を引き継ぐことを決めました。営業許可的には「旅館」です。電気も来ているし、夏は車も上がる。ドッグランもある、飲み放題もある。

でもここは山小屋です。

一般的に山小屋は「山頂に立つための前進基地」的な施設で、山小屋とはそういうものだといった認識を多くの登山者が持っていると思います。ここ数年、施策や立ち位置を変えてきている山小屋はありますが、一般的な山小屋の経営的スタンスもそのようなポジションでしょう。この立地で登山者を受け入れるのだから少しくらいの不便はしょうがないよね的に承服して利用している登山者も多いと思います。戦後の高度成長期に登山ブームがあり、アルピニズム的な思想での登山と別に一般の人々が手軽に自身の楽しみのために山に登るという時代がありました。たくさんの登山者が山小屋に殺到し、そのころから山小屋がだんだん登頂のために少しくらいの不便は我慢する場所になってきたのではないかと思います。私が山小屋での仕事を始めた1980年代も来る登山者は拒まず、狭い客室に詰め込んで、あまり衛生的とは言えない食事をさっさと食べてもらうような施設が山小屋でした。

前進基地的山小屋を否定するわけではありません。その場所だから存在できるスタイルの山小屋もあるのです。マナスルでは他の山小屋ではできないことも、できることをすべてやります。手を抜かず、丁寧に。居心地のよい居場所としての山小屋を作ろう。入笠山を訪れた方が山での滞在をそれぞれの楽しみ方で気持ちよく過ごせる場所になるように。そんな山小屋づくりが私のテーマです。

ヒュッテ入笠に屋号が変わっても、これからもずっと。

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